終わり近くに録音不良

昭和47年12月17日 特別奉修委員



 御神前にぬかずかせて頂くたんびんに、まあ大げさにいうならこう心がわくわくするような思いというかね、神様とまたお話し合いがでけるんだ、神様からどんな事を頂くんだろうか、またそういうその信心からでないと、あの信心の楽しみというものはないと思うですね。もうただ自分の言う事だけを一生懸命この、並べ立てると言う事だけではなくて、神様が聞いておって下さるんだと言うその確信ですね、その確信が段々すっきりと強く成って来ると言う事が信心です。
 是はあの例えば私が、あの三時半から四時までの時間をここの控えで、じっと待たせていただいておるという時は、もう是はもうほんとにそうなんです。もう四時にここに入るときの私は、こんなもうほんとに何か知らんけれど生き生きとしてね、その踊っているというかね落ち着いておるというか、なんとも言えませんけれど、もうとにかくあのわくわくする思いというたが一番適切だと思うんですけれど、もうとにかくあのちょっとでも柏手して御神前にぬかずくと言う事は。
 もうあの矢張り神様とのお話合いですし、対決ですしね。それはならこうやって座っておりましても、なら皆さんが何の御用をなさっておられましても、お百姓さんが百姓しておろうが、商売人が商売の御用に携わっておろうが、そりゃまあ神様と共にあるのですから、とこう目をつぶって金光様を唱えると、ここに神様を感じると言う事は、言えますけれど取分けね、御神前にぬかずくと言う事は、そのくらいなものがでけるようなお繰り合わせを頂かなければね。
 もう拍手一つでもだから仇や疎かに打たれない、ほんとに思いを込めてのもの、と言う事になって来る訳ですね。そういう思いで願いをさせて貰う、お礼を申させて貰う、又はお詫びをさせて貰う、神様から一つ一つ、はあ今日の願いは聞いて下さった、今日のお詫びは聞き届けてくださった、お許し下さったと言う様な所に心の安らぎ、心の安心があるわけですね。例えば花をつぼならつぼにさします。勿論水が一杯入っている、ですから水揚げをする。だから花が生き生きとしておる。
 と言う様にねあの枯れた心で、神様に向かってもだめです。心がもう生々とですからそのお水と言う事です。所謂はぁおかげを受けておるなぁと言う事なんです。今日はあの杉さんが家庭の今息子さんたち夫婦が、こちらへ引き上げて帰ってきてます。その色んな人間関係の問題の中に、丁度昨日は昼のお参りから帰らせて頂いたら、その問題が起きてるわけなんです、けれども今お願いしてきたばっかりの事なんですからね。
 お母さんの心の中には、いやそれが二人の幸福になる事の為ならばともう、焦点がそこに出て来てます。だからどうしたこつのあんた達は、とこう言う事も何にもいらない、それこそ落ち着き払って、いやあんた達二人が幸せになる事の為ならば、というそのお母さんに相談があったときに出来る訳です。もうその事がですねそして懇々として、今合楽でおかげを頂いておる話をさせて。今合楽でね五つの願い、その五つの願いの家族が勢を揃えて、もうとにかく本気で願えとこう仰る。
 というてその、体の丈夫を願わなければならない事、または家庭が円満である事を願わねばならない事愈々より、子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かなければならない事、そのためにはそのためには、矢張りこういう信心をさせて頂きます、という言わば修行の事を、神様にお誓いしての、しかも家族が勢を揃えてのこの事の願いを一生懸命願っておる所だから、そういう願いの中に、あなた達のことも入っているんだと。
 願いの中に先生の祈りの圏内にあるのだ、だからお母さんはこの様に安らいでおれるんだ、安心しておれるんだと言ったらその長男が、お母さんほんなこつね、と。もうそれから話し合いが大変スムースにいってから、もうそれこそもうほんとにと雨が降って地が固まるいうおかげこういう言葉だろうかというおかげを頂いてです、まあなんと信心を頂いておると言う事が。
 こんなにも有り難い事だろうかと、自分のいわば信心に打ち込ませて頂く様になってからこの方の事を思うと、その中にいくつも人生の岐路、幸か不幸かの岐路と言う事に立ったけれども、その都度都度をお取次ぎを頂いてお願いをしてきた。それがこの様におかげに成って来ておると言う事をです、ま信心を頂いておると言う事が有り難い、私はそういう心がね、瑞々しい所謂お恵みの水の中にある事の幸せを感じておると言う事なんです。それで水がこうやってね。
 水を上げておるような、いわば花の生き生きとしたものが感じられる心ん中に。所がさあそこが人間ですからんなら、今日は確かにそうであったなら杉さんの場合、昨日は確かにそうであった。んなら今日もそうである、明日も明後日も恐らく続く、おかげを頂かなければならんけれども、さあそこは切り花ですから、言わばいくらおかげの中にあっても、こんだおかげをおかげと感じん様になる時代があるんです。
 もう当たり前の様になるんです。もうその辺からいうなら又、ぼちぼち花が枯れてくるわけです。ですからそう言う所もまあ体験としては通らせて頂かなければならんですけれども、ならそれが本当に大地に根を下ろすという信心、ね、是からが私は信心の本格化というのは、そう言う事からじゃなかろうかとこう思うですね。信心にいわばその所謂腰が行って来る、昨日の御理解じゃないけれども腰折れの信心じゃだめだと。
 昨日その御理解を杉さん聞かせて頂いて、親先生もう今日の御理解頂きよって、私共の信心にゃもう腰折れですから、腰の折れた箒では綺麗にお掃除がでけないように、ほんとに腰の折れんごたある信心させていただかんにゃと言うて、そのお願いをして帰ったばっかりのとこだった。だから腰がしゃんとしとったわけなんだ。だからそういう例えばそりゃどうするの、と言わにゃん問題に直面しながらも。
 それはあんた達の幸福に繋がる事であるならば、いや親先生の祈りの圏内の中にある事だからお母さんは、動じない心配しないとこう言うとる。それからいわば手のひらを返す様な問題が展開、おかげの方へ展開してきた。そしてこういう事が無からなければ、とてもこう言う様なおかげになるまいと、言う様なおかげを受けたという、お届けが先ほどあったんです。ですからそれとてもです。
 例えば人間ですから、それは心が枯れとる時もあります、心が寂しいなったりいらいらするときにはもう、いわば枯れかかっとるときです。ですからそういう時にひと修行させて貰うという信心、例えばお花が水を上げなくなったら、根を叩くとか焼くとかすると又そこから、水を上げる様な事に成って来る様に、ね、自分の心を叩いて修行をさせて貰う。自分の身を削って修行させて貰うと言う様な生き方、そういう信心からです、私は信心が本当なもの。
 いわゆる大地に根を下ろしたような信心、ここからは私はいよいよ素晴らしいことですね、それは春夏秋冬があって、葉が落ちたり花が咲いたり葉が
  (録音不良)
 生き生きと青々としこったりという、そこは違ってまいりましても、根が間違ってないですから、いわば心の底が間違ってんないですから、揺るぎがない信心をさして貰う時に神様がもう、あの氏子は安心という事になるのじゃないでしょうか。
 だからどういうおかげを下さっても、どんなに金を持たせてもあの氏子はもう大丈夫、どんなに例えば健康をやっても、その健康で却ってその健康を乱用する様な事はない、と見極めが付いた時に。本当の意味においての健康、所謂子孫繁盛のおかげ、家庭円満のおかげ、または健康のおかげという本当のおかげが頂けれる、所謂大地に根を下ろした様な信心とは、そういうおかげの頂けれる事の過程をね。
 大事にさせて頂いて、その根を下ろしていく信心、大地に根を下ろして行く様な信心、そこからね一ヶ月二ヶ月例えば水をやらなくても、肥料を施さなくってもね。それこそびくともしない、成程葉はこうやって動いておっても、根は揺るがないと言った様な信心の確立という事になってくる。所謂信心の確立という事は、そのままおかげの確立という事に通ずることですし、今日の朝の御理解から頂きますと、身凌ぎのできる信心、という事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。